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「バラライカ」「マンドリン」という弦楽器名を聞くと、どうしても旧ソ連軍のかつての兵器を思い出す。
 
その名は「PPSh-41短機関銃」
 
Wikipediaによれば、
 
PPSh-41とは、第二次大戦時にソ連で使用された代表的な短機関銃である。
PP”とは、ロシア語で短機関銃を指す“Пистолет-пулемёт”の略称である“ПП”のラテン文字表記であり“Sh”とは開発者であるシュパーギンの頭文字である。
 
開発 [編集]
1939年11月、ソ連軍はフィンランドに侵攻した。ソ連はフィンランド軍を見くびり短期戦で決着がつくと十分な冬季戦の準備なく大兵力を投入するが、小部隊でスキーを履き、スオミM1931で武装したフィンランド軍の補給部隊に対するヒット・エンド・ラン戦術に悩まされることとなり、当初の目的を達することが出来なかった。スオミM1931のような銃身長の短い短機関銃は取回しがよく、森林戦に非常に有効だった。
この戦いにより近接戦闘時の短機関銃の有効性を再認識したソ連軍は、同年2月に生産中止になって兵器庫にしまい込まれていたPPD-34/38を慌てて引っ張り出し、同年12月にPPD-38の増産を決定した[1]。その後、改良型のPPD-40を開発・生産するが、依然として非常に重く、鍛造部品を削り出す大量生産に不向きな製造工程は変わらなかった。そこでソ連軍は大量生産の可能な短機関銃の開発を求めた。
PPSh-41の開発者であるシュパーギンはPPD系短機関銃を徹底的に分析し、これをより近代的に生産方式で製造することを考え、1940年9月にプロトタイプを軍に提出。同年10月に、シュピタルーニとの競争試作に勝利し、同年12月に砲兵総局局長のソ連邦元帥グリゴリー・クリークからPPSh-41として制式採用する旨が伝えられた[1]。
 
概要 [編集]
PPSh-41は依然としてPPDから使用されていたドラム型弾倉・木製ストックを採用している。
レシーバ(機関部)はドイツのMP18と同じく上下2分割構造であり、メンテナンス時には銃身基部にあるヒンジを軸に中折れ状態に分解できる。
銃身放熱カバーと上部レシーバ(機関部)は一体構造であり、鋼板プレス(高度な水準ではなく板金曲げ加工に近い)で製造され、銃身はカラーとともに放熱カバー内に挿入され、リベットで固定されている。
当時の短機関銃には低空で飛来する敵機への対空射撃能力も期待されていたため、ボルトは軽量化されて発射速度は900~1000発/分と格段に上がっていた。
また、銃身カバー先端を傾斜させ、発射時に噴出するガスの圧力で銃口を押し下げるマズルブレーキとして用いる工夫がなされ、以降のソ連製自動火器では様々なアイデアのマズルブレーキが装着されるようになった。
 
改良 [編集]
PPDから採用されていたドラム型弾倉は、弾薬装填にゼンマイを使用し、ドラム内に均等に弾薬を並べることが大変だった。また装填中に弾薬が弾け飛び、ゼンマイで指を切断するといった事故もしばしば起きた。これは本銃のドラム型弾倉の構造が、銃弾送り用ゼンマイを巻いてから銃弾を装填していくためである[2]。
1942年2月には国家防衛委員会から、PPSh-41の生産拡大には構造が複雑なドラム弾倉は不適であると指摘される[1]。そこで35連発用の箱形弾倉などが試作・配備されたようになったが、今度は弾倉がへこむという苦情が前線から出るようになる。調べてみると厚さ0.5mmの鉄板では強度不足であることが判明し、1mm鉄板に変更してみると良い結果が出た。
この問題以前から、照準器の簡略化が言われており、500mサイトを廃止し、100mと200mのみにしても問題なかったため、照星も溶接で接着するようになった。
その他の改良としては、受部が補強され、銃身内はクロムメッキを施し、緩衝材が厚さ18mmのファイバーから革製に代用されていった。
こうして生産効率を第一にした改良のため、より単純な構造となり、過酷な気象状況でも手入れしなくとも確実に動作する信頼性が向上した。
なお、初期生産の頃、「どうせホースの水のように弾丸をばら撒くのだから命中精度は問題ない」として、兵器庫で山積みになっていたモシン・ナガンM1891/30の銃身を切断して、2丁のPPSh-41の銃身として製造しようとする話があった[1]。
 
生産と運用、その後 [編集]
PPSh-41は制式採用後、1941年に98,664丁造られ[1]、ドイツ軍の侵攻に間に合う形になった。1942年には1,499,269丁造られ[1]、1941年元旦の部隊交付数は55,147丁[1]だったのが、1942年元旦には298,276丁[1]、1943年元旦は678,068丁[1]、1944年で1,427,085丁[1]が部隊で使用されるまでになり、終戦まで1,000万丁以上という大量生産が行われた。このため、どの歩兵中隊にもSMG小隊は存在し、ソ連海軍歩兵から、偵察部隊や空挺部隊などの特殊部隊まで幅広く使用され、戦車跨乗大隊では全員が装備している部隊もあったほどである[1]。まさにソ連軍を代表する短機関銃となった。
しかし、大量に配備されたからと言って、不満がなかったわけではなく、偵察兵と戦車兵、工兵や通信兵などから重量や携帯性から使いづらいと批判があり[1]、また、軍当局もPPSh-41の生産が軌道に乗ると、少し材料を浪費していると考えるようになる[1]。その後、ソ連軍はPPSh-41よりコンパクトで生産効率が良い新型短機関銃の開発を要求し、シュパーギンはPPSh-2をデザインするも不採用となり、スダロフのPPSが採用されるが、既に本銃が前線に大量配備されていたことから生産は抑制され、1945年までに100万丁近く製造されるに終わった。
第二次大戦後になっても中国と北朝鮮でライセンス生産がなされ、しばらくは東側諸国の主力短機関銃として、朝鮮戦争ベトナム戦争などで使われていた。
PPSh-41は通称ドイツ兵からは「バラライカ」、また日本兵からは「マンドリン」などいろんな俗称で呼ばれた。また、装弾数の多さや堅牢な構造が好まれたのか、ドイツ軍は鹵獲した本銃に「MP717(r)」という名称を与え、戦地でそのまま使用したり、自国の主力拳銃弾である9mmパラベラム弾を使用しているMP40の箱形弾倉を使用出来るように改造して使用した。
 
 PPSh-41短機関銃
 
マンドリン
 
バラライカ
 
昔から人間は、武器や兵器にニックネームをつけるのが上手いというか、好きなようだ。
 
この銃は既に現役ではないが、旧社会主義国や旧ソ連が援助したことがある途上国ではまだまだ現役として使用されているかもしれない。何せ、旧ソ連製の武器はタフなことで有名だからね。もう一つ言えば、「密輸入銃」といえば「トカレフ」と日本で言われたことがあったが、このPPSh-41短機関銃はそのトカレフと同じ口径の弾丸を使用している。
 
音楽と全然関係のないエントリーだったけど、マンドリンという楽器の名にはこの様な話もあるという話。

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憲法9条「変えない方がよい」67% 朝日新聞世論調査
 
2010年5月2日23時12分
          
 憲法について朝日新聞社が実施した全国世論調査(電話)によると、戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法9条を「変えない方がよい」は67%で、「変える方がよい」の24%を大きく上回った。「これからの日本の平和や東アジアの安定」に9条が「役立つ」と考える人は70%にのぼり、そうした評価が9条維持の世論につながっている。
 
 9条をめぐっては、憲法改正を目標に掲げた安倍内閣当時の2007年4月調査で、「変えない方がよい」49%、「変える方がよい」33%だったが、安倍首相の退陣後の08年調査からは「変えない方がよい」が6割台に増える一方、「変える方がよい」は2割台になり、それ以降は大きな変化はない。
 
 日本の平和や東アジアの安定に9条がどの程度役立つと思うかを聞くと、「大いに役立つ」16%、「ある程度役立つ」54%。否定的な見方は「あまり役立たない」19%、「まったく役立たない」3%と少なかった。「役立つ」という人は若い年代ほど多い。
 
 「大いに役立つ」と思う人は83%が9条を「変えない方がよい」とし、「ある程度役立つ」の人も75%が「変えない方がよい」を選んだ。
 
 憲法を全体でみた場合には、改正の「必要がある」は47%、「必要はない」39%で、改正派が上回っている。「必要がある」は07年は58%だったが、毎年少しずつ減り、50%を切った。
 
 改憲の「必要がある」という人の9条への態度をみると、「変える方がよい」は41%で、「変えない方がよい」が52%と多かった。
 
 調査は内閣支持率などとあわせ、4月17、18日に実施した。(石原幸宗)
 
この世論調査の結果、分からんでも無いが、本当に「憲法九条を変えない方がよい」と多くの人が答えたのだろうか?
 
いま問題になっている在日米軍普天間基地の移転の話は、憲法九条があるからこそ起きた問題ではないのか?
 
確かに、沖縄の在日米軍の負担を考えると、あんな物(米軍基地)は無い方が良い。だけど、沖縄云々を別にして、戦後真摯に我々日本人は自分たちの国の安全保障の事で議論をした事があるだろうか?
 
先ずは、その様なところから冷静に議論すべきではないのか?
 
先日、ウクライナの議会紛糾に関するエントリー「強国とは、戦争も平和も、思いのままになる国家の事であります」を書いた。あの騒動を知って、ある意味「うらやましい」と思った。ウクライナの議会紛糾は、ウクライナ国民自身が自国の自主独立のことを真剣に考えている証拠と考えるからだ。
 
日本は、60年安保闘争、70年安保闘争以降、自分たちの安全保障のこと、日本の自主独立のことを考える事やめてしまった。政治は勿論、世の中全般が自国の安全保障、自主独立を今もタブーにしている。
 
イザブログでは、もの凄く有名な「花うさぎさん」のブログ【花うさぎの「世界は腹黒い」】ではないが、まさしく国際社会は今の日本人が考えているより「腹黒い世界」なのだ。それを日本国憲法前文に列記されている「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と勝手に宣言したからといって、国際社会は平和にならないし、日本の生存権が国際社会から保障されているわけではないのだ。
 
そろそろ、自分ちの国の安全保障、日本の国際社会に置ける今現在の立場を、真摯に議論すべき時ではないのか?
 
 
塩野七生著『海の都の物語 5』の中から 第十一話二大帝国の谷間で より抜粋引用
 
【「強国とは、戦争も平和も、思いのままになる国家のことであります。わがヴェネツィア共和国は、もはや、そのような立場にないことを認めるしかありません」】
 
 
塩野七生著『海の都の物語 6』の中から 第十二話地中海最後の砦 より抜粋引用
 
【十七世紀のはじめ、外交官であり歴史家でもあったパオロ・パルータは、著作の一つ『政治生活の熟成について』の中で、次のように述べている。
 
「平和の甘美な果実を味わうのは、あらゆる政治的軍事的活動の究極の目標である。それゆえ、君主国であろうと共和国であろうと、国家の目標を軍事のみに集中し、戦争を繰り返し、国の境界を広げることだけに熱中するのは、その目標達成につながる道では決してない。その道は、多くの他国民を支配することではなく、自国の統治を正義にもとづいて行うことであり、国民に対して、平和と安全を保証することである」
 
まったく、異論をさしはさむ余地もない正論である。
 
政治生活の究極の目標は、個人であれ国家であれ、権力にありとしたマキアヴェッリから一世紀も経つと、これほどまでに〝成熟〟するのかというようなことは言うまい。また、海との結婚を祝祭化することによって、海を自分たちの所有物であるかのように考えてきたヴェネツィア人も、さすがに十七世紀ともなるとマイホーム主義者に変じたか、嘆くようなこともすまい。もしも、ヴェネツィア一国だけでなく他の国々も、パルータと同じように考えるようになったら、世界平和にとってはこれ以上の進歩はないのだから。
 
しかし、マキアヴェッリの著作がルネサンス時代を代表するだけでなく、時代を越えて通用する政治哲学の古典となり得たのは、理想を述べたからではなく、現実を喝破したからである。十七世紀のヴェネツィアは〝成熟〟を完成し、平和の甘美な果実を味わう心境に達したかもしれないが、他の国々は、成熟に向かってわき目もふらずに邁進中であったのが、ヴェネツィアの不幸であった。勝手に平和宣言をしただけでは平和は達成できないところが、永遠の問題なのである。】