中国の歴史書「史記」には、歴代中国の皇帝、王の話が多く記されている。
 
王朝崩壊のエピソードで、王朝崩壊の直接的原因が女が多いことも記されている。
 
女性蔑視をするつもりはないが、史記も含めて概ね歴史書に記されている話は、女がらみで王朝(国)が崩壊する話が多い。
 
史記の原文と言うか、後世に伝えられている史記でも読むには苦労する。史記は物語性が薄い書物で、「この様なことがあった」「この様な評判だった」ということをタンタンと書いてあるだけなので、理解しがたい。ましてや漢文で書かれているから尚更だ、その史記に記されている歴史を分かりやすく、かつ史記以外の歴史書とも照らし合わせて現代風にアレンジした書物がいまは多く出版されているので、史記を読んだことがない方は、その様な本で史記に記されている事を一度はお読みになるのも良いだろう。
 
その様な形で出版された本の中に【陳瞬臣著 「ものがたり 史記」中公文庫刊】がある。非常に分かりやすく面白い。
 
その本の中から、殷朝末期の話を引用してみよう。
 

【いまから約三千年前、二人の兄弟が遠いところから、この鄭州のまちにたどりついた。
 兄の名は伯夷(はくい)、年は四十代後半、弟の名は叔斉(しゅくせい)といって三十代の前半であった。
 「さて、どちらへ行きましょうか?」
 と、弟がきいた。二人とも国をすてたのである。どこかへ行かねばならない。
 殷王朝が天下を支配している。天下の中心である殷都へ行くのが常識であろう。
 「天子の都へ行くのは気が進まぬのう」
 と、兄は答えた。
 「私もおなじです。行きたくはありません」
 殷王朝初期の都はこの鄭州付近で、のちに北のかなた安陽近辺に移った。安陽市西北郊の小屯で発掘された殷虚は、伝説的存在であった殷王朝が、まちがいなく実在したことを証明した。また出土した甲骨文の解読によって、司馬遷の『史記』にあげられた歴代殷王の名が、ほとんど事実と符合していることも判明したのである。
 伯夷・叔斉の兄弟が旅をしたのは、四百年近く続いたこの殷王朝も、ようやくその末期を迎えつつあった時期にあたる。
 ときの殷王の名は紂(ちゅう)という。夏(か)王朝の桀(けつ)王とならんで、暴君の両横綱である。
 紂王は聡明、雄弁、そして行動力が敏速であった。しかし体力は人にすぐれ、猛獣を素手でうち殺したたという。
 紂王が愚昧な君主であったほうが、かえって殷王朝のためにはよかったであろう。頭がよいので、諫言する者を反対にやりこめ、雄弁なので自分の非をたくみに粉飾できた。
 紂王はまた耽美派であった。
 音楽が好きだが、荘厳なクラシックよりも淫靡なしらべを愛した。涓(けん)という音楽師に、「新淫声」「北里(ほくり)の舞」「靡々(びび)の楽」などを作曲させた。これらの音曲はすでにうしなわれて、曲名だけが『史記』に載せられている。
 宮殿、庭園、倉庫をさかんに造営し、天下の財宝と美女を集め、沙丘苑の一部に大動物園をつくり、野獣や鳥を放し飼いにした。
 酒池肉林。—
 これは沙丘苑における紂王の遊興を表現したことばである。『史記』には、
 —酒をもって池となし、肉をかけて林となし、男女を裸にして、その間に相い逐わしめ、長夜の飲をなした。
 とあるから、つまり乱交パーティーなのだ。
 紂王は妲己(だっき)という女を愛した。有蘇(ゆうそ)氏を討伐したときに得た絶世の美女である。この女は新趣向を考えつくことの名人であった。飽きっぽい紂王のために、つぎからつぎへと、新手の遊びを案出する。
 処刑もただの首切りでは平凡すぎる。
 炮烙(ほうらく)の刑。—
 というのは、紂王と妲己の合作による、世にも残忍な処刑方法だった。
 炭や薪で火の海をつくり、そのうえに油を塗った銅柱を渡しかけ、罪人に歩かせるのである。たいてい足をすべらせて、火中に落ちて焼け死ぬ。】

〜引用終わり〜
 
 
引用した話が、紀元前に本当にあったのか分からない。が、後世にこの様な話が残っていることを見ると殷王朝の末期は被支配者層から支持されていなかったことがわかる。しかも憎しみをもって殷王朝のことを当時語られていたことが分かる。そして、権力者に取り入った女、権力者が気に入った女は、何故か知らないが悪女が多いことも・・・。
 
さて、現ハトポッポ総理の夫人は、どうなのだろう?妲己とまで言わないまでも、私は、ポッポ夫人が賢いとは思えない。が、狡賢さが垣間見えていると思っている。権力を私物化している様に見える。夫人の伝えられるところのパフォーマンスを知ると、現在の総理官邸が、沙丘苑の様な状態になっていると思われても仕方があるまい。
 
 

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