テレビ番組だったか、本だったか忘れたが、その中で動物学者だか生物学者だか・・・これまた忘れた・・・が、言うには、動物の赤ちゃんと言うのは「カワイイ」と感じるような姿をしていて生存率を高めているのだそうだ。

 

 

貼り付けた画像の猫は、ノラ猫の親子なのだが、子猫がかわいく見えてしまう。

 

 

母ちゃん腹減った、オッパイ、オッパイといってせがんでいるのだろう。だけど現実には、この子猫たちが親猫にオッパイをせがむように、カワイイよりも腹が減ったが先で、このカワイイ子猫も他の動物にとっての「獲物」になることだってあるし、人間にとっても「害獣」になる事だってある。

 

 

世の中、「カワイイ」「可哀想」では済まされないことが沢山あるのだ。

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なんか、BPOと言う組織、テレビ局によって対応が違うよね。TBSやテレビ朝日、NHKには大甘な見解・意見・勧告なんだけど・・・このテレビ・マスコミの二枚舌基準、偏向の事で面白い文章を全文引用掲載する。

 

昔ネットで見つけたページなんだけど、非常に興味深い内容だったので文章をコピーして残しておいたんだ。だけど、今このページを探してみたけど見当たらない。

 

少し長いけど読んでみて。

 


[夏休みオープンカレッジ:第三回]
 「客観的報道」と「偏向報道」
~朝日新聞は本当に偏向しているのか~


 夏休みオープンカレッジ第三回のお題は「『客観的報道』と『偏向報道』」。
 萬保大学を受講している中学生(えらい!)からのメールに、「朝日新聞が偏っている事は知っていたのですが云々」と、あっさり書いてあったけど。
 やっぱ、朝日新聞の偏向報道というイメージは、相当広く国民の間に定着しているみたいだね。
 ごく普通の中学生から、「朝日新聞が偏っている事は知っていた」なんて当然のことのようにいわれてしまうと、朝日としても立つ瀬がないだろうけど。
 でもさ。
 朝日新聞は、べつに偏ってないと思うよ。
 偏っているというのは、その偏向の度合いをはかるための絶対的基準となるものがどこかに存在すことを前提とした評価だけど、そんな絶対的基準なんてものはどこにもないからさ。
 一般に「朝日新聞が偏向している」というときに念頭に置かれている絶対的基準は、いわゆる「客観的報道」ということになるんだろうけど。
 「客観的報道」なんて、存在しないからね、この地球上に。たしか地球物理学者の竹内均先生もNHK教育テレビの地学の講義でそんなことをいっていたように記憶しているし。
 「客観的報道」とほぼ同義で用いられている「中立的報道」というのも右に同じで、少なくとも太陽系には存在しないことがボイジャーの探索によって確認されているはずだよね。
 そもそも報道というのは、これ以上主観的な営みはちょっと他にはないんじゃないかというくらい、徹底的に主観的な作業でさ。
 とくに大手の報道機関ともなると、24時間365日or366日世界中から送られてくる膨大な量の情報について、①どの情報を報道してどの情報を報道しないか取捨選択して、さらに、②各々の情報の重要度をランク付けしたうえで、③分量や時間配分を調整する、という、主観のかたまりのような作業を経たうえで、情報を最終的に受け手のもとに送り届けるわけでしょ。
 だから、報道機関の発信する情報は、その報道機関の主観を全面的に反映した徹頭徹尾主義的な産物であって、どのような意味でも客観的なものではあり得ないんだよね。
 それにもかかわらず、日本の新聞社やテレビ局は、「客観的報道」とか「中立的報道」なんぞという、ありもしないものを社の報道方針として平気で掲げて涼しい顔をしているもんだから、国民もうっとりとそんなものかなぁと信じこまされちゃったわけだ。
 それじゃ、なんで日本の新聞社やテレビ局は、そんなありもしない嘘八百を並べ立てて、つまりは国民を欺いてまで「客観的報道」とか「中立的報道」をしているフリをしたがるのか。
 発生した結果に対する責任を一切とりたくないから。
 なんだよね。
 報道と因果関係のある何らかの結果が発生した場合に、それがあくまでも客観的報道、つまりは会社や記者の主観的見解ではなくたんなる事実の機械的描写にすぎいないのだということにしておけば、発生した結果にたいする報道機関の責任は原則として問われないからさ。
 もちろん、責任をとりたくないのは都合の悪い結果が発生した場合だけで、都合のいい結果が出れば「オレがオレが」で、自分の手柄を主張したがるんだけどね。
 ひとことでいって、責任回避のことなかれ主義体質の産物。
 この日本の新聞社やテレビ局の責任回避のことなかれ主義体質を、国民の前にいやというほど見せつけてくれたのが、例の椿事件。
 テレビ朝日報道局幹部の椿某なるオッサンが、細川内閣の誕生はてめえの会社の報道番組のおかげ(田原総一郎と久米宏の名前をあげていた)だと吹聴しているという情報を聞きつけた自民党の国会議員が、政権を奪われた腹いせにテレビ朝日の社長を国会に喚問した一件だね。
 喚問の根拠は、仮に椿発言が事実だとすれば、放送法が定めている「政治的に公平で中立的な報道」をするべきという準則に違反するのではないかと、そういう理由。
 で、国会に喚問されたテレビ朝日の社長(親会社の朝日新聞から天下った人だけど名前は忘れた)は、泣きそうになりながら平謝りに謝っちゃった、と。
 最低だな。
 一説によると、その社長の足元だけ国会の赤じゅうたんが黒ずんでいたらしいから、たぶん小便ちびってたんだろうね、朝日新聞から天下った社長。
 最低だよ。
 報道の内容を糾弾するためにテレビ局の社長を国会に呼びつけるなんざ、国家権力による言論の自由に対する弾圧以外のなにものでもないだろうに。
 そもそも放送法の「政治的に中立・公平」の規定は、たんなる訓示的規定にすぎないもんだから(もしも法的拘束力をもっているとしたら文句なしに違憲)、無視してかまわないんだし。
 だから、朝日新聞から天下った社長は、仮に椿発言が事実だとしても、なにひとつ謝罪する必要はなかったし、自分を呼びつけた自民党議員を逆に恫喝するくらいの気概を国民の前に示すべきだったわけだ。
 にもかかわらず。
 誤っちゃったんだよね。小便ちびって。
 テレビが免許事業でお上に頭があがらないなんていうのは、つまらない言い訳でさ。
 結局は、朝日新聞から天下ったテレビ朝日の社長が、報道の意義や言論の自由の意義を、まったく理解していなかったために、ああいう醜態をさらしてしまったという、それだけのことなんだけど。
 「これからは心を入れかえて、中立・公平なことなかれ報道に努めます」
ってさ。
 戦後、日本の報道界をリードしてきたと自他ともに認める天下の朝日新聞のエリート社員(テレビ朝日の社長に天下ることができるのは、朝日新聞でかなりの地位までいったエリート)の頭の中身は、その程度なんだよね。
 報道が徹頭徹尾主観的な行為である以上、見解の対立する政党や政策をとりあげるさいに、どれか特定の政党や政策により多くのウェートを置くのは当然のこと。
 そうでなくちゃ、並立していくつもの報道機関が存在する意味なんてないものな。
 要は、新聞もテレビも、自分達には長期土建屋政権をひっくり返してバカ殿政権を樹立したり、バブル政党に追い風を吹かせたり、パー(マ犬)の総理を国民的ヒーローに仕立て上げたり、そういうとんでもないことができるだけの力があるんだということを、常に肝に銘じてさ。
 それで、何かマズイ結果が出たら、そのときは会社として、場合によっては個人として、きちんと責任をとる。
 それだけの覚悟をしたうえで、報道という仕事に従事しなくちゃダメなんだよ。
 ところがどうだい。
 おいしところだけネコババして責任とるのは回避したいってんで、「客観的報道」だの「中立報道」だの、あらかじめ逃げ口上を用意してるんだもんな。
 そんでもって国会に呼ばれたらションベン黒じゅうたん。
 なによりも哀れなのは、そんな奴らのつくった新聞や報道番組を、真面目に読んだり観たりしているJapanese People。
 ご愁傷さま。
 というわけで。
 名目上はともかく、実際には「客観的報道」や「中立的報道」というのはどこにも存在しないわけで、あるのは「朝日新聞的報道」や「産経新聞的報道」や「赤旗新聞的報道」や「聖教新聞的報道」や「日本放送協会的報道」だけ。
 しかも、どれもべつに偏っているわけではなくて。
 たんに各々の社の方針に則った報道をしているだけ。
 よって、朝日新聞も朝日新聞的報道をしているだけにすぎず、それを偏向報道と呼ぶのは間違い。
 ということだね。
 じゃ、今回の講義はここまで。
 あ、あと念のため。
 たしかに朝日新聞は偏っていないんだけど。
 とてつもなくクレイジーであることは、たしかだね。

 


~引用終わり~

 

 

さて、読んでみて如何思っただろう?問題は、マスコミが偏っていようがなんだろうが、行ったこと、発言したことへの責任を取らないことが問題なんだね。しかも、責任の所在をアヤフヤにしてはぐらかしていることが問題なんだ。これは、マスコミに限ったことじゃなく、いまの日本に蔓延している風潮だと思う。

1998年に栃木・那須地域を中心に襲った豪雨災害は、東北と首都圏を結ぶ国道を完全に寸断した。国道と平行して走っている東北道も被害を受けのだが、高速道の復旧が思ったより速く進み、国道四号線の迂回路として高速を使える措置を政府が行った。たしか、栃木・矢板と福島・白河の間を上下線無料にしたはずだ。

 

 

ちなみに、阪神大震災のときに、被災間もない大阪・兵庫を抜けて広島・呉まで荷物を運んだ事がある。大阪から西へ向かう鉄道網が震災によりズタズタになったからだ。同時期、同僚のトラックは災害支援物資を抱えて、神戸まで行った。

 

震災後再開通して間もない名神高速から見えた大阪・兵庫の風景は、ブルーシートの青一色だった。本当に未曾有の災害がこの地に発生したのだな、とこのとき実感した。

 

 

 

元死刑囚という言い方が適当なのか分からないが、この永山則夫元死刑囚は結局、左翼に奉りたてられた左翼に徹底的に利用されしゃぶりつくされた犠牲者だと思う。死後も、このような容で徹底的にしゃぶり尽くされている。いや、神を信じず宗教を否定している筈の左翼全体主義者どもの神として崇められている。左翼全体主義者やカルトのレトリックに騙されてはいけない。

 

 http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090729/trl0907290846000-n1.htm

 

 

 

 

読売のネット版を観たら、

 

栃木県県央部と那須地域に大雨、洪水の警報
 宇都宮地方気象台は27日、栃木県県央部と那須地域に大雨と洪水の警報を発表した。同日夜にかけて雷を伴う猛烈な雨が降る見込み。


 竜巻などにも注意を呼びかけている。

(2009年7月27日16時16分  読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090727-OYT1T00711.htm?from=main2

 

と言う記事がアップされていた。


今から何年前になるのだろうか?栃木の那須地域を中心に襲った豪雨災害は・・・あの頃、自分自身長距離トラックの運転手をしていて、栃木・福島県境の国道四号線が豪雨によって通行止めになった場にいた。しかし、その時点で幸いな事に高速道路は通行可で、高速道を使って国道の通行止めを迂回したが、その高速道路で見た景色は凄かった。

 

川が、高速道路をまもなく飲み込むかもしれない勢いで流れていたのだ。案の定、自分が高速を降りた途端、高速も通行止めになった。それからの一週間、北関東、南東北は散々だった。完全に関東と東北の道路網が豪雨により寸断されたからだ。道路網の寸断は、経済的損失を生じさせた。当然の事ながら、このときの豪雨での人的被害も大きかった。

 

国道四号線の通行止めが解除され、走行中何時も見慣れていた景色、いや、走行中何時も眼にしていた国道沿いに建ち並んでいた住宅が、豪雨によって押しされ跡形も無くなってしまった現場を走行中に見たときは本当にショックだった。

 

 

 

 

塩野七生著『サイレント・マイノリティ』の中から全体主義についてより抜粋引用。

 

【それで、全体主義的動向が台頭してくるのは、悪意からであろうか。答えはノー。常に善意の所産である。

 

 右翼からであろうか。答えはノー。常に左翼と認ずる方向からである。

 

 では、旧世代の絶望から生れるのだろうか。またも、答えはノー。常に新時代の希望を発端にして生れる。

 

 有産階級がイニシアティーブをとる? ノー。無産階級とまでいかなくても、失うものをあまりもたない階級が、常に温床になってきた。

 

 冷徹な計算により生れるものか。ノー。常に情緒てんめんたる心情が、その特色である。

 

 軍事的強制力がなければ、実現しないのか。これは、半分ノー。全体主義政体の無視できないいくつかの例が、完全に人々のコンセンサスによって実現したことを忘れてはならない。そして、政体ではなくて「動向」にかぎれば、ほぼすべての人々のコンセンサスを獲得している。多数決をすれば、必ずや多数を占めるほどに。

 

 精神の腐敗より生れるものか。答えはノー。ほとんど唯一の例外もなく、清潔好み、クリーン好き、潔白なる人々が、主導力になってすすめてきた。】

 

【それは、全体主義的な空気を、頭脳の形成期間に吸ってしまった人は、一生、自らの頭で自由に判断する能力を、持てなくなってしまっている。
 マキアヴェッリも、自由なき政体下で生きてきた人は、たとえ自由を与えられても、それを活用するすべを知らない、といっている。】

 

 

塩野七生著『海の都の物語 1』の中から第二話 海へ!より抜粋引用。

 

【大義名分が有効なのは、行動するうえで、精神的拠りどころを必要とするからではない。行動の真の目的を巧妙にカムフラージュし、少しでも疑わしい事実があったらただちに介入しようと狙っている周辺の強国の抗議の口を、あらかじめ封ずるのに役立つからである。】

 

【しかし、現実主義は、人間の理性に訴えるしかないものであるところから、理性によって判断をくだせる人は少数でしかないために、大衆を動員するためにはあまり適した主義とはいえない。マキアヴェッリの言葉に次の一句がある。

 

「ある事業が成功するかすしないかは、その事業に人々を駆り立てるなにかが、あるかないかにかかっている」

 

つまり、感性に訴えることが重要なのである。アドリア海を「ヴェネツィアの湾」にしておくためには、ヴェネツィア人は多大な犠牲を払う必要があった。だがそのためには、理性的に判断して、自ら先頭に立って犠牲を甘受するエリート階級だけでは充分ではない。ヴェネツィアは、共和国である。民衆の支持が、絶対に欠かせない。そして、民衆は、目先の必要性がないかぎり、感性に訴えられなければ、動かないものなのだ。】
 

 

 

同じく『海の都の物語 1』の中から第三話 第四次十字軍より抜粋引用。

 

【数年前、日本で、ある人にこんな質問をされたことがある。

 

「現実主義者は、それが個人であっても国家であっても、なぜ常に憎まれてきたのだろう」

 

もちろん、彼と私の間では、現実主義についての定義づけを、あらかじめすることなど必要ではなかった。われわれ二人にとっては、現実主義とは、現実と妥協することではなく、現実と闘うことによってそれを切り開く生き方を意味していたからである。
だが、その時の私は、彼の質問に答えることができなかった。しかし、今ならば、それができるようなきがする。

 

「現実主義者が憎まれるのは、彼らが口に出して言わなくても、彼ら自身そのように行動する事によって、理想主義が、実際は実にこっけいな存在であり、この人々の考え行うことが、この人々の理想を実現するには、最も不適当であるという事実を白日のもとにさらしてしまうからです。
理想主義者と認じている人々は、自らの方法上の誤りを悟るほどは賢くはないけれど、彼ら自身がこっけいな存在にされたことや、彼らの最善とした方法が少しも予想した効果を生まなかったを感じないほど愚かではないので、それをした現実主義者を憎むようになるのです。だから、現実主義者が憎まれるのは、宿命とでも言うしかありません。理想主義者は、しばしば、味方の現実主義者よりも、敵の理想主義者を愛するものです。」】

 

 

一応、22日の日食時に撮影した部分日食。

 

朝から雨が降っていたのだが、日食が始まった頃に雨が小降りになり雲が薄れ、どうにか雲間から覗いた日食を撮影できた。だけど、自分で思うのだが、これでは「月の満ち欠け」だよね。

 


 

 

 

結局、天候が悪かったため日食を時間経過ごとに最後まで撮影できなかった。私が撮影した中で、4枚目の画像が最大の食だった。

 

今回の日食で思ったのだが、日食の「食」って、昔は「蝕」の字を使っていたのに、何時のころから「食」の字を使うようになったのだろう?所有している辞書には「正しくは、日蝕」と載っている。

以前、おら・オラ・U-Tanさんからのコメントで、「オニヤンマのホバリング、飛翔シーンの画像は無理ですか?」とコメントをいただいたが、正直無理だ。

 

 

貼り付けた画像をご覧いただけば分かると思うが、これが私にとっての限度だ。

 

 

この蝶は「カラスアゲハ」と言うのだろうか?この蝶は、日本で見られる蝶の中でも大きいほうの部類に入る。この蝶の飛翔シーンでこの程度だ。トンボは本当に無理だ。素早すぎる。

 

 

ちなみに、貼り付けた画像はトリミングしカラスアゲハを大きく見えるようにしている。元画像ではカラスアゲハが小さく写っているし、ご覧のようにブレているので何が写っているのか分からない。

政教分離というと「宗教と政治」と思いがちですが、「政治と教育」に関しても同じだと思います。そしていま、この「公教育への政治介入」が本格的に始まろうとしています。いや「特定思想信条の狂信者政権による公教育への本格的な政治介入」が正確な言い方でしょうか。

 

 

この動画を拝見すると、現役産経記者阿比留氏が最近エントリした「2大政党どころか、民主党1党制(小沢院政)に…? 」に書かれたことはありえることでしょう。そして、そうなれば間違いなく次の総選挙で政権を得た民主党政権は教育に直接介入し、特定思想の洗脳を子どもたちに行うことを憚ることなくいままで以上に熱心におこなうでしょう。そうなったらまさしく「暗黒時代の始まり」です。それでなくても、言論の自由、表現の自由が保障されたわが国で、言論弾圧が堂々と行われ、それに対して誰も公では反論できない状況にあります。

 

 

行政の長が、いくら自身の信ずる思想信条と違い気に入らないからと言って、自身の考えと反する言論を、行政の長が持つ権力で封じ込めるとは・・・わが国は「自由の国」ではなかったのか?

 

塩野七生著『サイレント・マイノリティ』の中から自由の精神より抜粋引用。

 

【1944年、ローマも 〝開放〟された。
 
 7月1日
 ローマに帰る。まったく、何一つ変わっていない。すべてが、以前のままだ。この点では、ファシズムは永遠なり、とでも言わねばならないようである。昨日起ったことは、今日、同じように起っている。『アヴァンティ』紙(戦前戦中はファシスト党の機関紙、戦後は、社会党の機関紙)には今日、こんな記事が載っていた。
 
 「労働者は、明るい顔をし、背すじがぴんと伸び、歩調がより強くリズミカルで、現在の政治的倫理的回復期を謳歌している」

 

 新らしいレトリックがはじまったようだ。早々に勉強しなくてはなるまい。


 同年8月7日
 ファシスト党の首脳たちの下品さと不正直は、青春をファシズムの崩壊を待つことで費消し、ために復讐の念に燃えている老いた教授のモラリズムにとって代わられた。ただし、この人たちは、ファシズムが崩壊した今、彼らの生きがいであったものも同時に失われてしまったことに、つまり、ファシスト党は、これら反ファシストたちの、無害であった反ファシスト運動を正当化できた唯一の党であったことに、気がついていないようであった。

 

 同年8月11日
 新生イタリアの文人たちは、いっせいに左翼を宣言する。なにやら左は、右よりもよほど、ファンタジーが豊かでもあるかのようだ。

 

 同年8月13日
 魚料理をナイフを使って食うというだけで、彼らは、自分たちが左翼であると思いこんでいる。(魚料理の正式な食べ方では、ナイフは使わない。筆者(塩野氏)注)

 

 同年8月19日
 
 「あなたは、民主主義者ですか?」

 

 「かつてはそうでした」

 

 「将来そうなりそうですか?」

 

 「願わくば、なりたくありません」

 

 「なぜ?」
 
 「ファシスト下に、もう一度もどらねばならないからです。独裁政権の下でなら、ようやく、民主主義を信ずることが可能なような気がするので」

 

 同年10月9日
 思想や主義が、わたしを恐怖におとしいれるのではない。恐怖におとしいれるのは、これらの思想や主義を代表する「顔」なのである。】

 

同じく『サイレント・マイノリティ』の中からアテナイの少数派より抜粋引用。

 

【まず、民主主義者たちは、自由よりも平等を好むものだからだ。なぜなら、自由には、純粋に精神的な満足しか与えられないが、平等は、日々新たに、小さな物質的な満足を与えてくれるからである。平等の概念を急進化した、プロレタリア独裁を思い出すだけで充分だ。これが、個々人の自由の破壊にどれだけ貢献したかを考えるだけで、それ以上の説明の要もないだろう。

真に自由を尊重する人々は、法を尊重するものである。これら思慮深い人々には、法の確立こそが、国民の活力の無用な消費を防ぐ唯一の道と考えるからである。一方、思慮浅き人々は、人民自体が法である、という彼らの宣言に見られるように、法を尊重しない。とはいえ、思慮深い人々の頭にある善政とは、ただ一つの主義では解決できるようなものではない。民心安定の二大要素である、法の平等な実施と利益の分配は、特定のイデオロギーの成果ではないのだから。】